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岡崎久彦さん の論説

 投稿者:Mです  投稿日:2006年12月 8日(金)08時42分29秒
  真珠湾への道 日米開戦65年
元駐タイ大使・岡崎久彦


 ■非凡な2人が切った片道切符

 ≪引き返す機会≫

 どうしてああいう戦争になってしまったのだろうか。何時から引き返せなくなったのか、この問題は繰り返し問い返されている。

 対華二十一カ条要求からのち日中関係は引き返せなくなった、という人も居る。しかし、二十一カ条要求の後でも孫文が希求したものは不平等条約の改正であり、明治初年以来日本がそのために営々と払った努力を考えれば十分理解できる話である。後に外相だった幣原喜重郎が日本から率先してこれを提唱した時は中国の国民感情は一転して親日的になっている。

 満州事変以降は日中衝突路線という人もいるが、満州事変は一応塘沽停戦協定で終わっているし、その後で英国が日英共同での中国支援を提案したリース・ロス協定に日本が参加していれば国際的にも実質的に解決していた。


 三国同盟はたしかに百害あって一益ない同盟だった。しかし、廃棄するチャンスは2度あった。

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 ≪昭和天皇は英米派≫

 まずは防共協定から始まるが、ドイツは反共の協定をつくっておきながら独ソ不可侵条約を結び、時の総理大臣平沼騏一郎が「欧州情勢は複雑怪奇」と言ってやめてしまうのだから、十分廃棄の理由はあった。同盟が成立してからも、日独ソの3国で世界を分割するという誇大妄想的大戦略で、外相の松岡洋右が同盟国歴訪から意気揚々として帰って来ると独ソ開戦になる。その時も政府部内では条約廃棄論があった。

 それでは何時から事態が取り返しが付かなくなったのだろうか。私の考えでは2つしかない。

 それは日英同盟廃棄と真珠湾攻撃である。しかも、それをしたのは、私が近代日本で最も敬愛する2人の人物、幣原喜重郎と山本五十六である。その2つのケースとも、この2人だからできたことであり、当事者が、凡庸とまで言わなくても普通の能力の人間ではとてもできなかったことである。

 もし日英同盟が存続していたら、昭和期の日本の外交は全く変わったものとなったであろう。昭和天皇も、西園寺公望などの重臣たちも、そして海軍の主流も英米派である。いくら陸軍の革新将校たちがはね上がっても、日本の外交の方向を変えるのは不可能で、三国同盟などは問題外であった。

 その結果中国、インドにおける日本、英国の覇権はそのまま温存され、民族解放は半世紀は遅れた可能性がある。他面、日本は第二次大戦の局外に立ち、第一次大戦のときがそうであったように、再び経済的に莫大(ばくだい)な利益を受ける機会を与えられたろう。

 もし幣原喜重郎という当時の日本として稀(まれ)な外交官がイニシアチブを取って代案を作ってこれを破棄していなければ、英国はとうてい自分からは破棄を言い出せなかった。また、当時の英米の実力関係からいって、英国は必ずしも米国の言う通りにする必要もなかったので、中途半端な形にはなったかもしれないが、昭和前期を通じて日英協調が日本の外交の基調であり続けたことは間違いない。

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 ≪攻撃の重いツケ≫

 もう1つの真珠湾攻撃は、国民にあれほどの惨禍をもたらさない形で戦争を終わらせる可能性を全く封じてしまった。戦時中、チャーチル英首相が日本に名誉を残す形での戦争終結を提案した時、ローズベルト米大統領は日本には(真珠湾攻撃の後では)残さるべき名誉はもうない、と言ったという。

 ベトナム戦争が終わって数年たってから、私は戦争指導者の1人であったグエン・コー・タックに会った。彼は「あの戦争は楽な戦争だった。われわれはアメリカと戦っていればよかったがアメリカは国内世論との両面戦争をしなければならなかった。われわれはアメリカ兵を殺し続けていればそれで良かった」と語った。私が「アメリカは硫黄島で2万の海兵隊員を失った」と言うと、彼は「2万人!」と言って絶句した。明らかに彼の頭の中では「なぜ、それで日本は勝たなかったのか」という疑念が駆け巡っていた。




 日本が普通の戦争の作法に従って、48時間の期限付きで石油封鎖解除を条件として宣戦を予告していれば、あるいは、戦争はなかったかもしれない。



 イタリアがエチオピアに侵入して国際連盟が石油禁輸を考えたときに、ムソリーニ伊首相が「石油禁輸は戦争を意味する」と言っただけで取りやめになったこともある。

 当時のアメリカ議会の反戦機運を考えれば十分そのチャンスはあった。通告を攻撃の30分や1時間前にしても、そんなことは「だまし討ち」の批判を封じるには役に立たない。ハル・ノートの発出前に連合艦隊がエトロフを出撃していることさえだまし討ちの理由にされているのである。

 無理に戦争に持ち込んでも、硫黄島で2万人、沖縄で5万人の損害が出たときには、戦争の原因が石油禁輸にあることを知っているアメリカ世論はとうてい戦争支持を続けられなかったであろう。



 硫黄島の戦士の英雄的な戦闘は本土の日本人が戦争の惨禍を受ける前に戦争を終わらせた可能性が十分あった。しかし真珠湾攻撃があったために、それが広島、長崎の原爆、ソ連の参戦の口実にさえなったのである。

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 ≪大河の如き流れ≫

 この真珠湾奇襲も周囲の反対を押し切って山本五十六が決したものである。通常の提督が決断し得るものではなかった。幣原喜重郎と山本五十六、この2人は昭和史で最も傑出した人物であり、私の最も好きな人である。また当時としてはアメリカというものを最も良く理解していた人物である。

 その2人が、他の凡百の人々にはない個人的能力を発揮したことが、日本をあの悲劇的な戦争に導き、しかも国民が徹底的な惨禍を受けるまで終わらせる方法をなくしてしまったのである。その後近衛文麿、東条英機たちのやったことなどは、時流に押し流されて、その場その場で、平凡人ならそれしかできない判断を積み重ねただけである。

 歴史学の泰斗ランケは言っている。「皆さんは歴史から教訓を得ようとしている。私はそんな大それたことは考えていない。ただ、歴史の真実を追究しているだけだ」

 歴史は、その時々の国民、政治家がそれぞれの立場で心血を注いで決断してきたことの積み重ねであり、大河の如き大きな流れである。その是非善悪を論じるが如きはわれわれの成し得る業ではない。歴史を論じるに際してなによりも必要なのは謙虚さである。(おかざき ひさひこ)

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【用語解説】対華二十一カ条要求

 第一次世界大戦中の大正4年に、日本が中国に提示した権益拡大要求。山東省のドイツ権益を譲渡するよう求めたほか、中国政府の政治・財政・軍事顧問への日本人採用など五号二十一カ条からなる。一部を削除して認めさせ、大戦後に中国の反日運動の契機となった。

(2006/12/02 )
 
 

真珠湾への道 日米開戦65年・・・

 投稿者:GIです  投稿日:2006年12月 8日(金)00時39分2秒
  1.中西寛さんの論説
①4つの「跳躍」・・・だけで終わっているのは惜しい。軍事的な面に傾斜して、中西さん専門の政治的な面からもっと触れてほしいです。
②過去の歴史を顧みて、これからの展望・有るべき姿と方向位までは論説で触れてほしい。
③国を思う心情は同意、しかし所詮外交は自己中・独りよがりでは戦えない。日本の宿命・・・で思考停止するのではなく、日本の宿命→日本国家組織・日本人の欠陥を正す・・・観点から今後の展望をするのが、今を生きるリーダーとしての責任である、と愚考致します。

2.井原吉之助さんの論説
①細かいところは兎も角として、各論説概要・歴史的連関を分かり易く纏められて見えます。小生のような素人にも良く分かる。但しルーズベルトがなぜ反日的になって行ったか、中国がいかに米国のマスコミまで巻き込んでアメリカ国民の反日勢力を拡大させて行ったか、そこまで触れられると更に良く分かる。
②国家運営が瞑想しているのは、反省不足の当然の報い・・・で終わるのではなく、井原教授もリーダーの立場にある責任者としての施策なり、あるべき方向を示して論説を纏めてほしかった。

3.中西さん、井原さんに共通した課題。欧米に対して、情報戦略・システムが致命的な弱体であった、日本も軍部は察していた、にも拘らず対抗策を怠ってきた(明治の初めにヨーロッパ~ウラジオストックまで電信設備を開通させて以来、ロシアのスパイ網に日本の情報が筒抜けであった。)。今でもアングロ5カ国に情報システムで羽交い絞めにされている、日本として今後どうする?(中国もGPS衛星打ち上げの情報もある中で・・・)

4.Mさんへ

岡崎久彦さん、佐瀬昌盛さんの論説も掲載して戴けませんか?
 

中西寛 さんの論説

 投稿者:Mです  投稿日:2006年12月 7日(木)16時09分59秒
  真珠湾への道 日米開戦65年
京都大学教授・中西寛

 ■4つの「跳躍」が導いた戦い

 ≪新戦術の「跳躍」≫

 65年前の12月に行われた日本軍による真珠湾攻撃は、日本にとって何重かの意味で「跳躍」であった。

 まず、真珠湾は「軍事的跳躍」、ないし飛躍であった。艦載航空機を用いた雷撃によって敵主力部隊に奇襲攻撃をかけるという発想はそれまで世界にない戦術であった。この戦術を着想し、実行に移したのは山本五十六連合艦隊司令長官であり、彼の強い信念がなければこの作戦は実行に移されなかったことはまず間違いない。

 ただ前提として日本はこの攻撃を可能にする兵器とそれを使いこなす高度の技量を備えた兵員の養成に成功していた。それは、軍事的には真珠湾作戦の成功は日露戦争における日本海海戦と並んで、明治以来の強兵策の成果の頂点であったということができる。事実、真珠湾攻撃の報を聞いて、日露戦争の勝利を想起した人も当時少なくなかった。

 しかし第2に、真珠湾は日本の政治的選択としては「死への跳躍」であった。この点では日露戦争と全く異なる。日露戦争では軍事戦略は政治戦略の下に置かれ、開戦時から終戦が意識されていたが、真珠湾攻撃は乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦であり、先に見通しのないまま「死中に活」を見いだそうとする賭けであった。真珠湾攻撃の際にもZ旗を使用し、作戦後に特殊潜航艇の戦死者を「軍神」に指定するなど、日露戦争への郷愁を意識している。それは日露戦争以降成長せず、むしろ退化した政治指導力の弱さをイメージ戦略によって補償しようという意図が働いたのではあるまいか。
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 ≪じり貧・どか貧≫

 当時の日本は政府、陸軍、海軍が互いに異なる構想を持ち、しかもそれぞれの内部にも対立を抱えていた。昭和15年から翌年の開戦にかけての政策形成過程を分析すると、松岡洋右外相が主導した三国同盟外交、陸軍の北守南進論、北進論から南進論への転換、海軍の和戦両様の対米戦略構想が組み合わさって、最終的には日本指導層内の誰もが消極的だったアメリカとの抜き差しならない対決に自らを追い込んでいったことが分かる。

 15年7月、第2次近衛文麿政権発足直後に決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」においては、「まず対独伊ソ施策を重点」とすることとされ、「米国に対しては(中略)已むを得ざる自然的悪化は敢て之を辞せざるも常に其の動向に留意し我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くる如く施策す」と対米関係の優先順位は低く、事を構えることを回避しようとしていた。

 しかし翌年9月、第3次近衛政権の下で決定された「帝国国策遂行要領」においては「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」が確認され、アメリカを主敵として開戦の意思が確認されている。この変化をもたらした最大の要因は2カ月前に行われた南部仏印進駐とそれに対するアメリカの石油禁輸措置だったわけだが、前年の北部仏印進駐に対してもアメリカはくず鉄、鉄鋼等の対日禁輸制裁を発動しており、南部仏印への進出に伴うアメリカの制裁強化は予想不可能な事態ではなかった。しかし6月の独ソ戦開始に慌てた政府、軍部は南方資源確保を優先し、日米交渉で妥協を見せないアメリカへのいらだちの高まりもあって、安易に南部仏印進駐を決めてしまったのである。よく言われるように「じり貧」状態に嫌けがさして「どか貧」を覚悟して進めたのが対米開戦であり、結果はまさにその通りになった。

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 ≪アジアのリーダー≫

 第3に、真珠湾攻撃は日本の「アジアからの跳躍」を意味していた。日露戦争以降、日本は大陸帝国の道を歩み、その支配下に異民族を抱えるようになった。それは尊皇主義を精神的支柱として構築された明治国家体制の予期せざるところであり、その矛盾が次第に政治的重荷となっていった。同時に日本の大陸帝国化は、中国、ソ連とじかに国境を接し、絶えざる緊張を強いられるという、日本史上においても例外的な経験となった。こうした帝国内外に存在する摩擦が徐々に日本の体制を弱体化し、張作霖爆殺から満州事変へと至る関東軍の謀略と軍人によるクーデター事件をもたらした構造的な原因であったといえる。

 そうした矛盾の結果、到達したのが日中「事変」であった。それはまさに「事変」であり、戦争ではなかった。日本も蒋介石政権も譲歩して和平する意思はなかったが、またこれを国際法上の「戦争」として戦う意思もなかった。日本は中国南部では国民党軍と戦い、戦闘では負けなかったが蒋介石政権に自らの意思を押しつけるすべは持たなかった。北部では毛沢東率いる共産軍とゲリラ戦を戦い、ここでも日本は負けてはいなかったが共産軍は勢力を伸ばし、日本が勝てる見通しはたたなかった。

 のみならずそれは日本人にとって説明のつかない状況であった。アジアのリーダーたらんとする日本がなぜ中国の蒋介石政権と戦っているのか、また、立派な軍隊を持つ日本がなぜ蒋介石政権を屈服させられないのか。こうした感情を吹き払い、まさに相手にとって不足のない「敵」こそアメリカであり、文学者の長与善郎が書き残したように、真珠湾攻撃は「我らの頭上に暗雲のごとくおおいかぶさっていた重苦しい憂鬱(ゆううつ)」を吹き飛ばしてくれたのであった。

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 ≪宿命の日米対決≫

 最後に、真珠湾攻撃は「アメリカへの跳躍」であった。ペリー、ハリスの来航以来、日本にとってアメリカは太平洋を隔てた強国であった。しかしその後、アメリカは南北戦争の後遺症で苦しみ、日本はイギリス、ロシアなど欧州列強とアジアで帝国主義のゲームに従事してそれなりの地歩を獲得した。20世紀に入ってアメリカは門戸開放政策を掲げてアジアへの復帰を図ったが、日本はアメリカと正面から対峙(たいじ)することを回避していた。が、グローバルな超大国の道を歩むアメリカと、アジア太平洋の地域的覇権をめぐっていずれかの段階で決着をつけることは宿命であったのかもしれない。

 上述のように政策決定のレベルでは指導層は対米戦を回避しようとしていたが、歴史的、構造的には日米対決の流れは存在した。そして必死に戦うことによって、敵同士は理解を深めることもあるのである。アメリカは日本に勝つために必死に日本を研究したし、日本は敗戦後、アメリカから学ぶことをためらわなかった。その意味で、真珠湾は日米同盟に向かう重要な礎石としての意味ももっていたのである。(なかにし ひろし)

(2006/12/01 )
 

伊原吉之助さんの論説

 投稿者:Mです  投稿日:2006年12月 7日(木)15時55分18秒
  「真珠湾への道」 日米開戦65年
 帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助

 ■衝突不可避へ7つの契機

 ≪日米100年戦争≫

 「あの戦争」は私の生涯最大の出来事である。旧制中学4年生で敗戦を迎え、価値観が大転換した。以来、あの戦争への考察を忘れたことがない。

 相手が悪かった。若い帝国である米国が、日本に向けて西進してきたのである。米国は米洲を聖域にして中国の権益を日本と争い、自国の都合を押し付けた。開戦までの契機が7つあって、後ほど衝突が避け難くなる。


 第1の契機=ペリーによる日本開国

平和に暮らしていた日本を力ずくで開国させた。これを「ペリーの日本強姦」と称したのは岸田秀である(『日本がアメリカを赦す日』毎日新聞社)。深層心理に怨念(おんねん)が宿った。「日米百年戦争」が始まる。

 第2の契機=李朝朝鮮とその宗主国清朝の李鴻章による「夷を以て夷を制する」対日政策

これが日本に日清・日露両戦争を戦わせ、「外征型」国づくりを強いた。近所迷惑甚だしい対応だった。


 第3の契機=米国の太平洋国家化

1840年代に「明白なる天命」をふりかざしてインディアンとメキシコから土地を奪い、太平洋岸に達した米国は、1898年の米西戦争で海洋帝国化し、ハワイ、グアム、フィリピンを得て東アジアに進出する。ヘイの門戸開放宣言は、モンロー・ドクトリンからウィルソン大統領の国務長官ブライアンとランシングによる日本の対華二十一カ条への不承認声明、フーバー大統領の国務長官スティムソンの満洲国不承認主義を経て、日米交渉のハル国務長官まで一貫する米帝国の西進宣言である。

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 ≪結局戦うほかなし≫

 第4の契機=西海岸における排日移民運動とワシントン条約体制

二十一カ条問題から数えて、日本対米華三十年戦争の始まりである。在華基督教宣教師が伝える「親中反日」感情が米紙を通じて全米に広がり、日米衝突の底流となる。


 第5の契機=世界大不況とブロック経済化

英米とも関税障壁を高めて日本の輸出を締め出した。このとき日本が英米から受けた理不尽な扱いについては、池田美智子『対日経済封鎖--日本を追いつめた12年』(日経新聞社)に詳しい。ABCDラインによる日本締めつけの前哨戦だったといえるかもしれない。

 第6の契機=反日親中大統領フランクリン・デラノ・ローズベルト(FDR)の登場

彼は母方の祖父が対清阿片貿易で儲けたことに罪悪感を抱き、大統領当選後、「私はシナに深く同情している。何が何でもスティムソンと共に日本を叩くのだ」と言い放ってブレーンの学者を呆れさせた。

 第7の契機=中ソの謀略

蒋介石・国民政府は米英に日本を牽制(けんせい)させようとした。毛沢東・延安赤色軍閥政権は日本に蒋介石を叩かせようとした。スターリンは日中衝突を望んだ。三者の思惑が第二次上海事変で実り、日本はシナ事変の泥沼にはまった。


 第5の契機まではまだ日米衝突は必然ではなかったが、FDRの登場と中ソの画策とにより不可避となった。


 「日米は戦うべきでなかった」という反省がある。日本が石油・屑(くず)鉄など重要資源を米国に依存し、日米の生産力格差が巨大だったことからしてもっともな反省だが、米国の日本軽視の甚だしさや中ソの策謀を考えると、日本の「反省」だけでは片付かない。ジョージ・ケナンはいう。「我々は十年一日の如く…日本に嫌がらせをした」(『アメリカ外交50年』岩波書店)。日本の在華権益を尊重しなかった米国が相手では日本の努力は限られ、結局は敢然、戦うほかなかったろう。

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 ≪指導者教育の不在≫

 「負け戦は断じてすべきではなかった」という反省もある。三国干渉時のように臥薪嘗胆(がしんしょうたん)すればよかったというのである。でも、昭和16年に満洲を含め、中国全土から撤兵できただろうか? 日清戦争当時の日本の実力では引っ込むほかなかったにしても、昭和に米国の言いなりになって臥薪嘗胆するのは無理だった。

 なぜ無理か? 軍部を含めて日本の各界が官僚制化し、指導者不在のまま「誰も責任をとらぬ」世の中になったからである。進出は指導者なしでもできるが、撤退は無理。江戸時代に各藩は藩校で指導者教育をしたから指導者に事欠かなかったものの、近代化を担う専門家・技術者が払底していた。そこで開国後は技術者・専門家教育に専念した。

 帝国大学も陸海軍の大学校も、官僚・参謀教育機関であって指導者教育はしない。そこで日本は、帝大卒業生が政治家になるころから、国家指導に問題が出てくる。第一次大戦に不用意な参戦をし、二十一カ条問題でも不用意な追加要求をして五四反日運動の原因を作った加藤高明がその代表である。大正デモクラシーが、国家運営弛緩(しかん)の転機を示す。

 帝大や陸大、海大を卒業した官僚・参謀群は、自分らの思いのまま国家を運営すべく、天皇を祭り上げて、内大臣ら輔弼(ほひつ)者の進言をそのまま認可するよう誘導した。昭和天皇は、それが立憲君主の道と信じ込まされ、3回の例外を除き、終始「指導」を控えられたのである。

 これを嘆いた徳富蘇峰は戦後日記に書く。明治天皇は要所々々でちゃんと御指導なされたのに、昭和天皇は御指導を控えられた。かくて中枢が空洞化し、官僚群がてんでんばらばらに国家運営に参画したから統一的戦争指導ができず、負けたのだと(『徳富蘇峰終戦後日記』講談社)。明治天皇は重要問題は納得するまで臣下を問い詰められた。だから臣下は周到な準備を心がけた。
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 ≪戦後の無責任化へ≫

 「あの戦争」の反省点は、まさにこの「指導者不在」に尽きる。指導者教育の不在は、戦前より戦後に著しい。各組織の官僚制化・無責任化も戦後に著しい。国家百年の大計など、誰も考えていない。これでは集団は壊滅し、国家は亡びる。乃木希典凡将論が出て偉人を踏みにじり、平等思想が横行して下衆(げす)がのさばる世の中になった。これが「人民主権」の産物なら、「人民主権」とは下衆の政治である。

 日本は日露戦争の反省を怠って昭和の敗戦を迎え、敗戦の反省を怠って経済成長に突っ走った。国家運営が迷走しているのは、反省不足の当然の報いである。(いはら きちのすけ)

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 【日米開戦への主な出来事】

 安政 元年 ペリーの要求で日米和親条約締結

 明治27年 日清戦争

   37年 日露戦争

 大正 3年 第一次世界大戦勃発

    4年 対華二十一カ条要求

 昭和 6年 満洲事変

    8年 ローズベルト米大統領就任

   11年 日独防共協定結ぶ

   12年 シナ事変

   14年 第二次世界大戦勃発

   15年 日独伊三国同盟を締結

   16年 真珠湾攻撃(日米開戦)

(2006/12/04 )
 

OECDの情報は東京センタから!

 投稿者:GIです  投稿日:2006年12月 5日(火)16時57分9秒
  2006年中国研究開発投資のOECD情報は、OECD東京センターのホームページからです。
英文ですが、下記URLの「科学技術産業アウトルック2006」を開いてご覧下さい。
尚、先に投稿の冒頭の日にちが間違っていました。(正)12月4日です。

  http://www.oecdtokyo.org/
 

2006年、中国の研究開発投資が世界第二位に躍進!

 投稿者:GIです  投稿日:2006年12月 5日(火)16時46分34秒
  2月4日、OECD(経済協力開発機構)が「科学技術産業アウトルック2006」において発表した情報によれば、中国の2006年に於ける研究開発投資額が約1,360億ドルとなり日本(約1,300億ドル)を抜き、米国(3,300億ドル)に次ぎ世界第二位になると発表した。研究者数も既に2001年に日本を抜き世界第二位になっているが、2006年には926,000人に上ると言う。尚、EUー15の投資額はフランス・ドイツ・イギリスを含めて2,300億ドルとのことである。

2000年以降の研究開発投資への構造を小生なりに概括してみると、
(1)資金供給面では、欧米が政府主導(大学ほか公的研究機関を含む)であるのに対しアジア地域では民間企業が主導する投資となっている。
(2)投資構造面では、1990年代に対する伸長率が製造業は3%であるのに対し、サービス業の伸長率は12%となっており、OECD加盟国内の研究開発総投資額に占めるサービス業の比率は約25%にも上っており、情報サービス産業の拡大高度化を反映している。
(3)資本系列面では、投資伸長率への寄与度は多国籍企業・外国資本からの投資性向が高い。

中国における外資企業は約50万社、民族資本企業は約1万社という。又中国の総貿易額に占める外資企業の占拠率は約60%という。しかし一方では中国資本の海外投資は2000年以降年率50%以上の伸びで飛躍的に拡大中である。2001年のWTO加盟以来中国の海外投資が更に急拡大しているが、これは中国が第11次5カ年計画で発表した「2006年~2010年の海外投資を年80~100億ドル行う」と宣言した方針を受けて、予想以上の経常収支の黒字踏まえ、これを前倒し更に投資額も拡大させているように見られる。

日本も頑張らなくては!(続きは他日)
 

前日商会頭(元石播社長)「稲葉興作」氏ご逝去

 投稿者:GIです  投稿日:2006年12月 2日(土)00時51分23秒
  前日本商工会議所会頭(石川島播磨重工業の元社長)の稲葉興作氏(82歳)が11月26日ご逝去されました。同氏はバブル崩壊後の1993年日本商工会議所会頭に就任、2001年までの8年に亘り長期景気低迷で経営環境が悪化した中小企業の纏め役に務められました。この間政府に対し景気対策、中小企業対策の実施を要求、所得税・法人税の減税実現に努められました。特に、不良債権を抱えた銀行などによる貸し渋り対策として「中小企業向け20兆円の特別保証枠創設」に尽力されたことは、全国各地中小企業再生の拠所のひとつとして貢献されたことで尽きせぬ思いの中小事業者も数多くあった事と存じます。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 

12月2日土曜日・グリークラブ定期演奏会

 投稿者:グリークラブ・サイト管理者です  投稿日:2006年11月30日(木)08時43分44秒
  「第15回もしも明日がコンサート」開催します!

2006.12.2土曜日:アスピラート:18;30開演

男声合唱団「防府グリークラブ」・「新田女声合唱団」とのジョイントコンサートです!

いつもの楽しいコンサートをお楽しみください。
 

イリジウム後日談

 投稿者:GIです  投稿日:2006年11月28日(火)18時11分55秒
編集済
  第一次オイルショックは1973年の中東戦争によって引き起こされた。

「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が勃発、10月16日にはOPECが
原油価格を3$/B→12$/Bと一挙に4倍に値上げをした。以降、日本経済を狂乱物価に
巻き込み疾風と怒涛の時代を迎えた。明くる昭和49年5月私は○○○エンジンの営業を
担当し狂乱物価を掻い潜って脱出する作業に着手することとなる・・・」と小生の某随想
録に寄稿している。

ユニークなエンジンを開発したのはその時で、スパークプラグの損耗が激しかったことから
パラジュウム、イリジウム等レアメタルを電極に使用したプラグの開発をメーカーへお願い
した。今ではイリジウムの電極への採用は当たり前になっているが、当時は来る日も来る日
も「瞬時広範囲への燃焼効率向上・メンテナンスフリー」のエンジン(プラグ)の開発で明
け暮れていました。営業も開発人も生き抜くため一心同体の会社生活でした。
・・・イリジウム・・・GIの苦闘していた時代の物語でした。
イリジウムとインジウム、材料の基本特性が違うので直感的にオヤと思ったまでです。

ところでMさん、レアメタルは韓半島の付け根の国の方が種類も埋蔵量も多いとか・・・・
闇の情報ですが、六カ国協議も何年かかることやら目が離せません。闇情報・・・本当?
 

レアメタル・インジウム

 投稿者:Mです  投稿日:2006年11月28日(火)12時00分46秒
  下記、早速、先輩からご教示あり。

その1;イリジウムではない。インジウムです。・・・・はい、その通りです!

(イルジウムは例の恐竜絶滅のときの隕石・・・隕石層がある!
 これについて別途タイヘン興味があり、そのせいで回線がショートした気がします。)

その2:「製品化への目処付けは未了」だそうです。

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いいたかったことは、液晶をはじめとして「レアメタル」について
中国に依存度の高いものが沢山あります。

すでにタングステンなど、事実上輸出規制に動いています。由々しい問題です!

液晶・超硬工具・ハイブリッド自動車用駆動モーター・HDD用永久磁石

なんかに影響が、ひしひしと感じられます。

わたしが思うくらいなのでお国とトヨタさんなどなど、とっくに動いているのですが。

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という気持ちのところへ遠くからTVのニュースで、聞こえたので
ちょっと喜んだのですが。

先輩、ご教示ありがとうございます。

追加情報もよろしくおねがいします。
 

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